思考

文章や映画に代弁を求めてる。

僕を含め現代の人々はもどかしい感情や形容し難い絶望や喜び、苦しみに日々直面している。それを言語化、可視化出来ないことに苦しみが胸につっかえる。それを形にされることを望んで僕は作品に向かっているのだと思う。

僕の中で文章や映画以外に胸のつっかえを忘れることが出来る瞬間がある。

それは思考することだ。

僕はこれまで思考することを悪としてきた。考えすぎると気分が落ち込んでしまう、考えすぎると上手くいかない。

しかし最近そうでは無いのではないかと思えるようになってきた。

もしかすると僕が思考していることは常識で何を今更と思われるようなことかもしれない。ただ僕はそれを謎として向き合うことによって自己を形成している実感がある。

思考することで樹形図ができ、自分の中で完璧な考えが浮かんだ時の快感を求めている。例えば幸福と不幸についてだ。

ふと何の前触れもなく幸福と不幸は相対的に捉えてはいけないと気づいた。

相対的な思考は自己の感情を素直に感じ取ることは出来ない。

「あの時は幸せだった」そう思うことは誰にでもあるだろう。それは過去に比べて現在が劣っているという相対的な評価を下しているということだ。

僕は今日感じた「あの時幸せだった」という感情について思考してみた。

あの時と対比した今には劣っている点が多々あって懐古的な気持ちになった。

ただ、現在について独立したものとして考えると周囲の人に恵まれ、健康な体で生活出来ている。

これは幸せなのだとそう感じた。

 

ただ、この結論を出した時心から幸せだと感じることが出来なかった。1度相対的な評価を下したことで過去より幸せじゃない現在という考えから抜け出せなかった。

 

僕の現在は過去に抑圧され可能性を失ったものに成り下がった。