あの子のステメからいつの間にか「幸」という文字が消えていた

それはかなり前のことで、それが消えたことのショックを僕はまだ受け続けている

僕は恋人らしいことをちゃんとしてあげられなくて、悲しい思いをさせている

自分で悲しんでもらえてると思い込むのは傲慢かもしれないけど自分はそう受けとっている

「幸」が消えたことを今になって改めて「ああ、自分ではこの子の幸せを維持することは出来ないんだな」と思った

これは多分消えたその時に思うべきことであって適切な時に適切な感情を抱けなかったことに今気づいた

申し訳なくて、更に終わりを感じる

感じるべきはもっと前だったのに

今だからこそ苦しさが増す

自分が1番好きでいられる人でさえずっと幸せを感じてもらうことが出来ないならもう僕は誰のことも幸せにすることは出来ないと感じた

存在価値の濃度はどんどん薄まっていく

少数派

自分はマイノリティに関する話とか生きづらさを感じる場面に関心を抱く傾向がある

それは好奇心という(ここにおいては)モラルが欠如した感情のせいであろう

マジョリティであるということに対して嫌悪感を抱いてしまうという傲慢さ

多様な人を理解したいという無理な願望

その違いというその人の一部分に過ぎないもので一括りになんて出来ないし全て理解するなんて誰においても無理なのは分かってるけどどうしても関心があるのだ

悪意のない攻撃をうけることは誰しも経験があると思うが自分の中でそれによってうけるダメージの大きさがかなりほかより大きかった

それを自分が与える恐怖からの関心なのだと思う

また、普通という言葉にも時として違和感を覚える多数派であることが普通ではないと思う

個人個人にそれぞれの普通はあってそれは多数派であることが普通ではない

自己の普通や一般論を押し付けることはただの攻撃である

普通の基準は自らで決めるべきでそれこそ普通などないのだ

多様性が認められる世の中になったと思っていたのだが分からないことに対する恐怖が薄れただけなのだと思うようになった

例えばSNSやマスメディアによりLGBTについて発信されることが増えた

これでLGBTの人の苦労や考え方を学ぶ

そして恐怖心はなくなり少しずつ受容していく

これによって一部分を分かっただけで全てわかった気になって逆のベクトルの偏見も生まれるなどの問題などもまたある

ただ僕が思ったのはこれは未知のものでなくなったがため受け入れることが出来ているだけで人間が多様性に適応し、受け入れる能力を手に入れた訳では無いのだということだ

根本のところで受け入れられている訳では無い

これに気づいた時悲しくて仕方なくなった

注視されてないマイノリティは色んなところにいる

セクシャルな部分に限らず様々な特異性によってまた偏見は生まれる

結局差別は無くならずただ形が変容していくだけなのだ

こんな御託を並べたところで自分はマイノリティに属している部分など思い当たらないし、お前が語るなという話だろう

ただ、自分が危害を加えるリスクを少しでも下げるために考えたいのだ

自分より生きづらい人がいると安心したいのかもしれない

自分でさえ生きづらいのに理解されないマイノリティの人はどれほどだろうとそんな偽善的な思考ばかり繰り返す

そうじゃない人に何を言われても何をされても救いにならないかもしれない、またこの考え自体攻撃になり得るのかもしれない

ただ、自分はなんでこんな楽に生きているのに勝手に苦しんでるんだろう とそういう思考に陥る

決してそういう人たちと接してでしゃばりたいとかではないのだが、少しでも理解したいと思う傲慢な思考は止まらない

可哀想

可哀想という言葉を聞く度違和感を感じる

親がテレビを見ていて可哀想という言葉を使うことがある

それを聞いて悪気がないことも本気でそう思っていることも分かるけどやめて欲しいと思ってしまう

可哀想という言葉をかけられて救われることなんて無いと思うしただ自分の哀れみの押しつけであってそれは暴力にさえなり得るのでは無いかと思う

こんな感じ方する人はもしかしたら少ないのかもしれないけど少なくとも自分はこう感じている

だからこそ自分は誰かに対してこの言葉を使いたくない

考えすぎなことは分かってる

ただ、どうしても可哀想の背後にある自分は違うという安堵感と可哀想と思えてるという優越感を感じる

自分が馬鹿で弱くて生きるのが苦しいからこそ他者の哀れみは攻撃だと感じてしまう

自分が何気なくかけている言葉の中に誰かにとって攻撃になり得る言葉があることがとてつもなく怖いし、本気で申し訳ない

ただ、自分の価値観を押し付けることもしたくないから相手が気にしない限り自分がとやかく言いたくないという気持ちもあってただただもやもやした気持ちを抱えたままでいる

だからこそ人の気持ちを読み取れる人間になりたい

 

大人

大人になったら夢なんかなくなるって言うのは小さい頃はみんな自分の好きなことに興味が無くなって仕事ばっかになるのかなって思ってた

 

でも僕は大人に近付けば近付くほど好きな物が増えていってしたいことも沢山できた


じゃあ夢がいっぱい出来たのかって言われたらそういう事でもなくてやりたいことは夢にはならなかった


僕は現実を見てしまうようになった


いや、好きなことから逃げてるだけかもしれない

 

僕は日本語の美しさが好きで文章が好きだ
だからといって作家になんてなれやしない

 

僕は物語を通して自分のメッセージを見るものの五感に訴えかける映画が好きだ

だからといって映画監督になんてなれやしない

 

そうやって挑戦することもせずに成功する確率

なんかくだらないことを考えてみんなが向かう方向に流されている

 

流れから離れて走っていく人をただ羨みながらただ自分はただ流されている

 

ずっと安定だけをとってきた
幼稚園児の頃は外になんて出たくなくて1人で妄想したりぼーっとしてたかったのにみんなと同じように外に出て走り回った


小学生の頃は地域の子の後についてずっと真似をしていた


中学生の頃は野球部の仲間のように陽気に振舞った

 

なんとなくもやもやして理由なんて分からないけどずっと死にたいとばかり思っていた


中学生の頃からずっと不眠症が続き、死ぬ勇気もないから夜通し自分の首を絞めて苦しくなって緩めてまた絞めてなんてことを繰り返していた

 

今ではそんなのは存在の希薄さへの絶望なんてことははっきり分かるけどそんなこと13歳の自分には分かるわけなかった


自分がなぜ死にたいのかが分からないことが苦しくて死にたい気持ちが大きくなって行った

 

生きる術だと思っていた安定は自分を、心を殺していってるんじゃないかと思う

 

踏み出したい、自分を認めてあげたい、生きたい

 

自分に才能がある気が全くしなくて怖い

 

だからこそ踏み出して全力で努力して納得して諦めさせられたい

まだこのままじゃ大人になれない

偽同

存在意義を求めて日々生きている

アイデンティティを確立出来れば自分の生きる意味が得られると思った

でも、もし見いだせたとしても僕だけのアイデンティティになり得ることは無いということに気づいた

それは誰かにとってもアイデンティティになり得る

自分だけが持っているものなど存在し得るはずが無い

それでもずっと自己確立のために求め続けた

 

 

ある人物のブログを読んだ

その人は自分と似ていると思った

だからこそ自分を救済してもらえるのではないかと

しかし、その人の中に自分と同一方向でありながら正反対の考え方を見つけた

その瞬間酷く悲しくなった

他者への諦め方、関わりの持ち方、冷め方全てが自分とは正反対だった

それは自分の独自性が高められた瞬間だった

 

外から見れば同じようなものでも僕からしてみれば全く正反対で失望するようなものだった

ただ、僕が感じたのは悲しみのみだった

つまり僕はマイノリティの中での普遍性を求めていた

独自性を持ち、普遍的である人間を求めていた

思考には常に矛盾が付き纏っていて自分の一貫性の無さに呆れさせられる

僕が求めているものは手に入らないもので僕が出した答えによって行き詰まる

これからも僕は自分の思考に対してパラドックスを持つ答えを出し続け、何も進歩しないまま思考地獄に存在し続けることになるのだろう

愚愛

たった1人に読んで欲しい文章をどうしてもその人に見せることが出来ないので可視化して気持ちを整理したいと思います。

弱い人間であることを中途半端に隠してしまっていることを申し訳なく思っています。

でも、これから曝け出せるとも思えず、八方塞がりな状況です。

あなたのような強い人間は私の弱さを理解できないでしょう。それは悪いことではありません。ただ、誰も悪くないからこそ僕は苦しくなります。

あなたを気遣った言葉はどうやら女々しかったようであなたをかえって不快な気持ちにさせてしまいました。申し訳ない気持ちは溢れてくるのですが、同時に哀しい気持ちが押し寄せてきます。

もちろんこんな事になってしまっているのは私のせいに変わりは無いです。このまま終わってしまうような気がしてなりませんが、恐らく私に止める権利などないのでしょう。

終わりたくなどないですが、私の多くの不用意な言動のせいであなたに負担をかけてしまっている以上終わりを感じざるを得ません。

だから終わる前に私自身のこととあなたへの気持ちを書きたいと思います。

 

まず、私はよく死にたいという感情に襲われます。あなたはイメージできるのかなとも思いますが、反対にびっくりするのかもとも思います。

かなり時間をかけてようやくなぜ死にたいのか分かりました。分かってしまえば普遍的なことでくだらないことです。ただ、私にとってはそれは大発見でした。

一言で言えばそれは存在の希薄さでした。

現代のネット社会、多様性が重要な社会において自己を確立しきれてない僕は存在意義を見いだせないという事です。

きっと、そんなことかと思われるでしょう。普通すぎると。そう、私はどこまでも普遍的なのです。特質と言えるものを持ち合わせてないのです。それが私には酷く辛い現実なのです。これに気づいた時、私は自分が酷く強欲であることに気がつきました。もちろん、今までも強欲なことには気づいていたのですがそれは私の想像のはるか先を行っていたのです。

世間には自己の普遍性を愛し、受容して生きている人が沢山いるのでしょう。それが私にはどうしても出来ません。

あなたはとても才能溢れる人です。だからこそ私は時々苦しくなってしまいます。自分の存在価値をさらに見いだせなくなるのです。

どうしても釣り合わないという気持ちばかりが募るのです。それがあなたに私の気持ちを伝えられない原因なのです。これは言い訳かもしれません。責任転嫁かもしれません。ただ、私の中でこれが答えになってしまった以上、どうしてもこの苦しい劣等感は肥大してしまっています。

あなたはご存知でしょうが、私は酷く自己肯定感が低いようです。ただ、だからこそ見栄を張ってしまいます。そして勝手に苦しんでいるわけなのです。

ここでしか言えないことを言わせてもらうと、本当はあなたのことを嫌いになりたいと思ったことが沢山あります。

気分屋なところも強いところも気にしないところも正しいところも全部大嫌いです。

ただ、どうしてもあなたのことを考えてしまいます。どうしても会いたくなってしまいます。命を投げ打って守りたいと思ってしまいます。

好きなところだって沢山出てきてしまうのです。それが悔しくて仕方がありません。だからささやかな反抗としてここには書きません。

私には最近考えていることがあります。しなければいけないことから逃げるための思考かもしれませんが強く望んでいることです。

それは表現者でありたいということです。

しかしこれは決して私自身を発信したいという意味ではありません。私の思想を発信したいということです。私は様々な表現者のお陰でここまで生きてこられたと思います。ラース・フォン・トリアー岩井俊二ジム・ジャームッシュ太宰治村上春樹西加奈子挙げればキリがないわけですがとにかく私はこの人達によって作り上げられたという訳です。

映像、言葉、文章の力で生き長らえてる私はそれ以外のことをして生存するということを許せないという気持ちになっているのです。

存在価値の希薄さが私の憂鬱の原因であると言うことに気づいたきっかけも漠然としたいことを考えた時でした。つまり私が映画を観て、本を読んで、という行為を行う理由は表現に対する憧憬でした。

私が残したかったものは私の存在ではなく、思想でした。私は思想を通して存在価値を確立したいと思っているという事です。

あなたは表現者としての素養に溢れています。それは私が喉から手が出るほど欲しいものです。私の最も欲しいものを持っている人であるという点であなたを尊敬し、嫉妬しているのです。

こんな歪んだ愛情であるのに私はそれを純粋なものに変換してあなたのことを愛しています。これは紛れもない事実です。ただ、なんの邪念もなくあなたを愛しているのです。

愛する人に認めて欲しいと考えるのはおかしいでしょうか。あなたには私の長所が思いつきますか。私には人から分かるような優れた能力など持っていないわけですが、それでもどうしてもあなたに認めて欲しいという気持ちを抑えられません。これも、普遍性と強欲さゆえなのでしょう。

今のあなたには私はただ鬱屈とさせる存在であるような気がしています。それは耐えきれないことです。だから終わりが近いような気がしているのです。あとは私の勇気だけなのでしょうね。あなたから離れる、あなたの幸せのみを願う勇気。私が私を嫌いな最も大きな理由はこんな勇気すら出せない卑小さでしょう。この卑小さをどうにかしたいと日々考えているのですがあまりうまくいきません。

もしかしたら私の思い違いであなたはまだ私のことを好きなのかもしれない。もしかしたらあなたを鬱屈とさせるだけの存在じゃないのかもしれない。

そういった逃げる理由を並べてしまういます。これを卑小と言わずなんと言うのでしょうか。

こんな卑小な人間と付き合わせてしまってほんとうに申し訳ないと思っています。改善したいとも思っているのです。

本当は、本当は器が大きな寛容な人間になりたいのです。

 

私はずっと自分に向けた文章と言い続けてきました。この文章にも書きました。しかし、いつも私は1人に向けて書き続けている。対象は変化するにしろたった1人に向けた文章なのです。更にほぼ全てはあなたに向けた文章です。ただ、読んでもらう度胸はなく、私に向けた文章と言い続けてきました。私が書くことによって救われてるのは変わらないし、私のためというのもあるけど、1番はただわかって欲しいと言う気持ちです。本当はあなたにわかって欲しい。受け入れて欲しいのです。

あなたに拒絶されそうなことも、面倒がられることも承知した上で受け入れて欲しいと思ってしまいます。

 

この傲慢さと付き合っていくのが辛くて押し潰されそうです。ただ、助けを求める力すら残ってないです。

だから、あなたが私の愛を受容してくれる限りはもがいて、生きて、最後にどうにか死のうと思います。

 

 

 

背反

相反する考えが浮かぶことが多くそれは一方はとてつもなく嬉しいことで他方では死んでしまうほど辛いことだ。

これはあくまで一部に過ぎないが、僕は愛する人の姿を見ると彼女に惹かれ幸せに包まれる。しかし他方ではその美しさと儚さによって心は蝕まれ、死んでしまいたい感情に襲われる。

僕達の関係は意図的かつ偶然性を持って状況により変わることになっている。学校にいる際は友人ですらなくなり全くの他人になり変わる。そういう中で僕は嫉妬と依存の傾向が強くなるわけだ。

 

 

僕の想いとは反して彼女に愛されている実感を得られない。彼女にも僕の想いはどれだけ伝わってるか分からない。彼女は時に甘えてきて僕のことが好きだと言ってくる。しかしそんなこと無かったかのように次の日にはドライで友人とも言えないような素っ気ない対応をするのだ。

自分は気分屋だと語る彼女だが気分屋というにはいささか波があり過ぎるように感じる。彼女を信じきれない自分のことが嫌いになっていく。彼女の言葉を信じて彼女の事を守れたらそれだけで存在価値が生まれるのに、とおもう。

彼女を失ってしまえば僕の彼女と結びついた部分は死ぬ。今でも彼女を想っていることで結びついていく部分が増えていく。このまま侵食を続けたままだと彼女が消えた時には結びついていない部分の方が少なくなって、そのまま生きる意味と価値を失うのでは無いか。彼女の心情を恐れつつ、僕の生に内在する死を今日も恐れている。